LOGIN「国外に逃れるとして、隣国の中ではベルシオン王国がお勧めだ」
「……ベルシオン?」
イザベラは、その国の名に反射的に反応した。
「グランクラネル王国とは、親密というほどの関係ではない。身分が露見しても、おそらく突き返されることはないだろう」
小太郎のぶっきらぼうな口調が、亡命の必要性を突きつけてくる。
やっぱり、国外に逃げるしかない……
そう分かってはいた。
そして、逃げるならば、ベルシオン王国ーー麗子はイザベラの記憶をたぐり寄せ、ベルシオン王国に関する情報を引き出した。
学園時代、社交の場で何度か会った人物がいる。
ベルシオン王国第一王子、ルーク・ベルシオンーー
ヘインズ・クラネルの婚約者として紹介された場で、彼と共に舞踏会のフロアを踊った記憶があった。
彼は剣の腕も立ち、整った顔立ちを持つ美丈夫。
小国の王子ながら、その隠れた人気は女子生徒の間で静かに囁かれていた。だが、ベルシオン王国はグランクラネル王国と複雑な外交関係にあり、誰もが積極的に近づこうとはしなかった。
「あの男の国……」
窓の外を眺めながら、イザベラは静かに呟く。
確かに、あの国ならば、政治の道具として突き出される可能性は低い。
仮にグランクラネル王国が引き渡しを要求しても、そこまでして応じるほどの友好関係ではないはずだ。イザベラは小さく息を吐き、目を閉じた。
「……いいわ。ベルシオン王国へ行きましょう」
次なる運命の舞台が、決まった。
小太郎だけが頼りだった。記憶を確かめた限り、彼は信頼に足る男だった。
「今晩はここで夜を明かし、明日、国境を抜けよう。朝になったら馬車で迎えにくる。ここには誰も近づけないから、安心しろ」
低く抑えられた声が静寂に溶けるように響く。次の瞬間、小太郎の姿は掻き消えた。まるで幻のように、そこにいたはずの影が一瞬にして霧散する。忍びの技なのだろう。記憶の中でも、彼は風のように現れ、そして消えた。
イザベラは周囲を見渡した。窓には厚手のカーテンがかかり、隙間から差し込む月明かりだけが部屋を仄かに照らしている。壁際には、見慣れぬトランクがぽつんと置かれていた。蓋を開けると、中には平民の服が几帳面に畳まれている。上質な絹や金糸の刺繍が施されたドレスとは無縁の、粗い麻布のワンピースやシンプルなマント。それでも清潔に洗われ、干したての太陽の匂いが微かに残っているのが救いだった。
イザベラはゆっくりとパーティードレスの留め金を外した。ふわりと床に落ちるドレスの生地は、夜の静寂の中でひっそりと音を立てる。くノ一から渡された部屋着に身を包むと、ようやく肩の力が抜けた。ベッドに腰掛け、そのまま柔らかな布団に体を沈める。
(ふかふか……転生前よりも寝心地がいいじゃない)
予想外の快適さに驚きながらも、今日起こった出来事が次々と頭をよぎる。婚約破棄、処刑宣告、逃亡の手はず。急激な変化に脳が追いつかない。けれど、疲労の方が勝っていた。思考はやがて霞み、暗闇に溶けていく。
――そして、朝が来た。
鳥のさえずりで目を覚ます。どこからか漂う朝露の匂いが、昨夜の混乱を夢の出来事だったかのように錯覚させた。
イザベラは寝ぼけたまま身を起こし、傍らの庶民服を手に取る。姿見の前に立ち、それを体に当ててみる。
「どうかしら……平民に見えるかしら?」
鏡に映るのは、転生前とは比べ物にならないほどの美貌。目の前の光景に、彼女は息をのんだ。
――これが私……鏡で見ると、凄いわね。
思わず視線を巡らせる。腰のあたりまで伸びた、栗色のウェーブがかった髪は、朝の光を受けて艶やかに揺れる。エメラルドグリーンの瞳は宝石のように煌めき、真珠のように白く滑らかな肌にはほんのりとした血色が差している。豊満な胸、折れそうなほど華奢な腰、丸く形の良いお尻、すらりと伸びた四肢。そのすべてが、完璧な調和を成していた。
ふと、悪戯心が湧く。イザベラは下着姿のまま、モデルのようにポーズを決めてみた。
――前世でもそこそこ自信はあったけれど……これはレベルが違うわね。
美しい曲線が映し出されるたびに、思わずうっとりしてしまう。
(これで婚約者を奪われるなんて、信じられないわ)
納得がいかず、唇を尖らせる。
「男って、大人しそうで、ちょっと見優しげな子が好きなのかしら……?」
鏡に向かって、指で目尻を下げてみる。頼りなげで儚げな雰囲気を演出しようとするが、すぐに虚しくなった。ため息とともに手を下ろす。
――駄目ね、どうやっても漂う悪女感は消せないわ。
それにしても、このままでは美しすぎて目立ってしまう。平民服を着たところで、誰の目にも異質に映ることは間違いない。
「変装が必要ね……」
そう呟きながら、彼女は姿勢を正し、意を決して声をかけた。
「小太郎、いるんでしょう?」
次の瞬間、空気が揺らぐ。
シュッ、と風を切るような音とともに、小太郎が目の前に跪いた。まるで最初からそこにいたかのように。
――やっぱり、いたのね。
一瞬で全身に血が上る。
(え、待って、私、今さっきまで下着姿でポーズ決めてたじゃない!?)
羞恥心が爆発し、顔が一気に真っ赤に染まる。
(……え、まさか見てた? いやいや、そんなわけ……)
ちらりと小太郎の顔を盗み見る。だが、彼の表情は微動だにしない。冷静沈着、まるで何事もなかったかのような無表情。
(くっ……! ちょっとくらい赤面するとか、視線を逸らすとかしなさいよ!)
イザベラはぎりぎりと歯を噛みしめた。どうにも納得がいかない。このままでは、完全に「見られ損」ではないか。
(くそっ……忍び相手にプライバシーなんてないのね……!)
それでも、羞恥に震える彼女をよそに、小太郎は何事もなかったかのように口を開いた。
「支度は整ったか?」
どこまでも平静な声。
……その余裕が、ますます癪に障った。
「小太郎、変装が必要よ」 服だけでは平民には見えないと判断してイザベラが手配を求めると、小太郎は深く頷き、落ち着いた声で返す。「ただいま手の者を」 彼がそう言った瞬間、まるで影から生まれたかのように、斜め後ろに佇んでいたくノ一が一歩前へと進み出た。漆黒の装束がふわりと揺れ、夜の闇をまとったかのような気配を漂わせている。「この者に、変装の手伝いをさせます」「お願い」 小太郎が姿を消し、くノ一は床に膝をついて深々と頭を下げた。彼女の仕草は無駄がなく、凛とした緊張感が漂う。 変装の準備が始まると、イザベラはぐるぐると晒を巻かれ、細い腰の上に肉厚な偽装が施されていく。圧迫感に息苦しさを感じながらも、これも生き延びるためだと自分に言い聞かせた。土色の顔料が滑らかな白肌を覆い、そばかすを散らした顔へと作り変えていく。顔の造作はそのままなのに、くすんだ肌色とそばかすの効果で見事に別人のようだ。 さらに、口に含み綿を詰めると、頬がふっくらと膨らみ、輪郭が丸みを帯びたものへと変化した。唇を動かすたびに違和感があるが、顎が痛くてそもそも話したくないので、問題はないだろう。長い髪は帽子の下に押し込められ、もはやあの煌めく栗色の髪も、貴族然とした美貌も、ここにはない。(これなら、さすがに誰も私だとは思わないでしょうね……) 鏡に映るのは、見知らぬ娘。顔色は悪く、貧相な頬、くすんだ唇。イザベラ・ルードイッヒなど、どこにもいなかった。 くノ一に軽く頷くと、タイミングよく小太郎が姿を現す。(……もしかして、ずっと見てた?)「では国境を目指しましょう」 小太郎の声に促されるまま、イザベラが馬車に乗り込もうとすると、彼はすっと扉を開け、ぶっきらぼうに言い放つ。「早く馬車に乗れ」 その横柄な口調に、イザベラは苦笑する。(ほんと、小太郎って偉そうよね……) 馬車が動き出すと、舗装された煉瓦の道を滑るように進んでいく。しか
変装を解いた小太郎が、鋭い眼光を宿したオッドアイで静かに考えを巡らせる。「国外に逃れるとして、隣国の中ではベルシオン王国がお勧めだ」「……ベルシオン?」 イザベラは、その国の名に反射的に反応した。「グランクラネル王国とは、親密というほどの関係ではない。身分が露見しても、おそらく突き返されることはないだろう」 小太郎のぶっきらぼうな口調が、亡命の必要性を突きつけてくる。 やっぱり、国外に逃げるしかない…… そう分かってはいた。 そして、逃げるならば、ベルシオン王国ーー 麗子はイザベラの記憶をたぐり寄せ、ベルシオン王国に関する情報を引き出した。 学園時代、社交の場で何度か会った人物がいる。 ベルシオン王国第一王子、ルーク・ベルシオンーー ヘインズ・クラネルの婚約者として紹介された場で、彼と共に舞踏会のフロアを踊った記憶があった。 彼は剣の腕も立ち、整った顔立ちを持つ美丈夫。 小国の王子ながら、その隠れた人気は女子生徒の間で静かに囁かれていた。 だが、ベルシオン王国はグランクラネル王国と複雑な外交関係にあり、誰もが積極的に近づこうとはしなかった。「あの男の国……」 窓の外を眺めながら、イザベラは静かに呟く。 確かに、あの国ならば、政治の道具として突き出される可能性は低い。 仮にグランクラネル王国が引き渡しを要求しても、そこまでして応じるほどの友好関係ではないはずだ。 イザベラは小さく息を吐き、目を閉じた。「……いいわ。ベルシオン王国へ行きましょう」 次なる運命の舞台が、決まった。 小太郎だけが頼りだった。記憶を確かめた限り、彼は信頼に足る男だった。「今晩はここで夜を明かし、明日、国境を抜けよう。朝になったら馬車で迎えにくる。ここには誰も近づけないから、安心しろ」 低く抑えられた声が静寂に溶けるように響く。次の瞬間、小太郎の姿は掻き消えた。まるで幻のように、そこに
馬車の中ーー 窓から差し込む月明かりが、柔らかな光となって車内を淡く照らしていた。 黒いベルベットのカーテンが揺れるたび、光と影が交錯し、幻想的な陰影を生み出す。 遠ざかる王城を見つめながら、私は大きく息を吐いた。「ふぅ……」 肩の力が抜けると同時に、張り詰めていた緊張がどっと押し寄せる。 まるで、全身を締めつけていた鋼鉄の鎖が、一気に解き放たれたような感覚。 小太郎は向かいの座席に腰を下ろし、暗いオッドアイを細めた。「隣国に向かった方が良い」 低く響く声が、沈黙を切り裂く。「家に帰っても、あの女はお前を捕らえて突き出すだろう」「あの女……」 それが、側妻を指していることはすぐに理解できた。「嘘! お父様が助けてくれるわ」 反射的に言い返したが、その言葉はひどく空虚だった。 ……そう、助けてくれるはず。 私は、公爵令嬢。公爵の娘。 父は、私を見捨てたりしないーー「…………」 だが、小太郎は何も言わなかった。 その沈黙が、冷たい現実を突きつける。 ーー父は、何もできない。 思い返せば、これまでずっと、側妻の言いなりだったではないか。 ならば、今もーー「……そうね。きっと、お父様は何もできないわ」 力なく笑いながら、拳を握りしめる。 いいわ。もう、期待はしない。 頼るべきは、“忍び”だけ。 小太郎だけーー「任せるわ、小太郎」 静かに告げた瞬間、小太郎のオッドアイがわずかに光を宿す。 イザベラは一瞬、顔を歪めた。 だが、すぐにその弱さを振り払うように笑顔をつくる。 今は立ち止まっている場合ではない。「……行きましょう」 決意を固め、細く白い指をぎゅっと握りしめる。 爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが
コツ、コツ、コツ………… 足音が近づいてくる。得体の知れない恐怖で、背筋に冷たい感覚が走り、心臓が早鐘を打つ。 ーー不意に、響き始めた足音が牢の前でピタリと止まった。 ゴクリーー 無意識に喉が鳴った。 鉄格子越しに、ぼんやりとした灯りに浮かび上がる影ーー。 静かに、ゆっくりと、そこに立っていた。 金髪。碧眼。 心臓が、一瞬、強く跳ねる。(ヘインズ!?) 血が逆流するような感覚に襲われた。 冷え切った牢獄の空気が、一瞬にして凍りつく。 怖い。 いやだ。 さっきの痛みが、頬に生々しく蘇る。 拳の形が刻まれたような強力な痛み。 強化魔法で身体強化した情け容赦ない全力のパンチをくらった瞬間の衝撃が、今になっても脳裏に焼き付いていた。 また殴られる? それとも今度こそーー 恐怖が喉元までせり上がり、息が詰まる。 どうすればいい? 逃げ場はどこにもない。 ここは牢の中。私は囚われの身。 ギリ、と痛みも忘れて奥歯を噛みしめた。 だがーー違う。 目の前の男から、あの皮肉な笑い声は聞こえてこなかった。 顔は同じなのに。 髪の色も、目の色も、輪郭すらもーーまるでそっくりなのに。 けれど、圧倒的に、何かが違う。 違和感。 違和感。 違和感ーー まるで、同じ仮面をかぶった別人のような。 暗闇の中で、じっと私を見つめる視線。 冷たい。 刺すような鋭さがあるのに、ヘインズの持つ愚鈍な傲慢さがない。 静かすぎる気配。 殺気はない。 だが、まるで獣が闇に潜んでこちらを観察しているかのような、異質な存在感があった。 鉄格子越しに、その顔を凝視する。 すると、男はわずかに首を傾けた。
もう一度、記憶の奥底に沈み込むように考えを巡らせる。 もし、この牢獄から脱出できたとしてーーその先は? 行くべき場所は一つしかない。 ルードイッヒ公爵家ーー自らの生家。 だが、そこは決して安息の地ではない。 むしろ、今のイザベラにとっては、敵の巣窟に等しい。 唯一、頼れる可能性があるのは父・ジオルグ公爵だけ。 頑固で冷徹な男だが、少なくとも公爵家の名誉を何より重んじる。 無実を証明できれば、見捨てられることはないかもしれない。 しかしーー 公爵家には、彼女の命を脅かす存在がいる。 実母はすでにこの世になく、その座を奪った側妻は、かねてよりイザベラを疎んでいた。 憎しみを隠そうともしない女狐は、自らの娘に公爵家の正統な後継者の座を与えるため、 ありとあらゆる手を使ってイザベラを貶めようとしてきた。 その娘ーー義妹は、まるで母の影のように彼女に倣い、 いつも嫉妬と敵意を滲ませた視線を向けていた。 そして、屋敷に仕える執事やメイドたち。 彼らの忠誠が向くのは、家長である公爵ではなく、その側妻だった。 彼女の一声で、イザベラは簡単に追い詰められる。 助けを求めることは、すなわち死を意味する。 胸の奥に冷たいものが広がっていく。 牢獄の寒さよりも、ずっと鋭く、ずっと深い絶望の刃。 それでもーー ここで終わるつもりはない。 絶対に、生き延びてみせる。 イザベラは震える指をぎゅっと握りしめた。 この世界で生きるために、自分を殺す者を殺さなければならないのならーーそれすら、受け入れる覚悟が必要だった。 だがーー 唯一、側妻にその存在を知られていない者たちがいる。 闇に生きる者たち。 影の中に潜み、密やかに動く者たち。 決して表に立つことのない、闇の刃ーー忍びの一族。 その
牢の中、イザベラの記憶をひたすら探る。 冷たい鉄格子が無機質な檻を作り出し、重苦しい空気が肌にまとわりつく。 湿り気を帯びた石壁からは、鼻をつくカビと血の入り混じったような臭いが漂っていた。 底冷えする牢獄の中で、イザベラは膝を抱え、じっと己の内側へと沈み込んでいく。 ーーこの世界の情報を整理しなければ。 ーー自分に与えられた力を把握しなければ。 ーー何としてでも、この絶望的な死刑宣告を覆さなければならない。 思考を巡らせれば巡らせるほど、脳裏に浮かび上がるのは否応なしに突きつけられる現実。 それは、まるで刃のように鋭く、逃げ場を許さぬ残酷な事実だった。 ーーやはり私は、イザベラ・ルードイッヒなのね。 牢獄の冷気に縮こまる身体とは裏腹に、頭の奥が焼けるように熱い。 麗子としての人生が確かにあったはずなのに、今の自分は間違いなくこの異世界の公爵令嬢。 だが、与えられたのは美しい容姿と高貴な身分ではなく、婚約破棄と死刑宣告ーーそして、無実の罪。 ふっと力が抜け、思わず肩を落とす。 瞳を伏せ、唇を噛み締めながら、重く沈む溜息がこぼれた。 頑張るのよ、麗子! 心の中で叫ぶ。それは炎を灯すような言葉のつもりだったが、その声は霧の中に消え、まるで水底に沈んでいくように、焦燥と虚無感が絡みつき、心の灯は小さく揺らめくばかりだった。 それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。 ぎゅっと両手を握りしめる。 痛みが現実を繋ぎ止める鎖となることを願いながら、深く息を吸い込んだ。 ーー私は、私を救わなければならない。 意識を研ぎ澄ませ、記憶の断片を拾い集める。 かつてのイザベラが何を知り、何を手にしていたのか。 それを理解し、活かさなければ、この世界の中で朽ち果てるだけだ。 するとーー まるで霧が晴れるように、脳裏に鮮明な映像が浮かび上がった。 イザベラは”忍び”を使い、あの女、カトリーヌを影から探らせていた。 忍び。 それは、闇の中で生まれ、闇を纏い、闇と共に生きる者。 主に従い、主のために動き、主のためにその刃を振るう存在。 小太郎ーー その名を思い出した瞬間、心の奥で何かが疼いた。 ーーそうだ、あの少年がいた。 三つ年下の、生意気な小僧。 かつ